直木三十五(なおきさんじゅうご)
生没年月日 明24年2月12日~昭9年2月24日 本名=植村宗一。
大阪府大阪市南区内安堂寺町2丁目生まれ。
桃園小学校、育英高等小学校、市岡中学校と進み、
一時、薬局勤務、奈良県の小学校の代用教員を務める。
明44年、早稲田大学英文科予科入学。
2学期より高等師範部に転部するも、学費が払えず除籍。
大5年、同棲相手の仏子須磨子(のち結婚)との間に長女誕生。
早稲田美術研究会記者、大日本薬剤師会書記などを経て、
大7年、トルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設。
大8年4月から雑誌『主潮』を発行。
その年、刊行会を離れ、鷲尾雨工とともに冬夏社を興すが、半年で倒産。
その後、雑誌『人間』や、三上於菟吉と創設した元泉社の経営を手掛けるが、
いずれも事業としては失敗。
大12年、関東大震災後、帰阪して、プラトン社に入社する。
川口松太郎と二人で『苦楽』誌の編集を担当。
この頃から大衆小説を書き始める。
映画の世界にも関心が深く、マキノ省三と共同で映画製作も手掛ける。
昭4年に『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」や、
昭5年~昭6年に『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した
『南国太平記』などで、流行作家として地位を確立。
作風は、時代小説から、時局小説、現代小説など幅広く、
大衆文芸を中心とした文芸評論や随筆も数多い。
昭9年、結核性脳膜炎で東大病院にて没。享年43歳。
翌年、友人の菊池寛が「直木三十五賞」を設定、現在まで続く。
直木三十五は「直木賞」にその名を残す作家ですが、直木三十五自身についてはあまりにも知られていません。
直木三十五(本名:植村宗一)は、1891年(明治24年)大阪市南区内安堂寺町に生まれ、この記念館の隣にあった小学校(現在は桃園公園。小学校の塀の一部が今もこの建物にくっついたまま残っている)に通いました。市岡中学、代用教員などを経て早稲田へと進みますが、学費に困って中退。その後出版事業を興したり、雑誌の編集、映画を制作するなど多くの活動を行い、そして時代小説、大衆小説を多作と言える程執筆します。代表作「南国太平記」で一躍人気作家としてその地位を確立した彼ですが、同時に病気や借金を抱え、無頼で破天荒な人生を走り続けました。そして四三歳という若さでその生涯を閉じます。 翌年、友人である菊池寛らが「大衆文学の歴史を変える貢献」として「直木三十五賞」を設立し、現在まで新人作家の登竜門として「芥川賞」と共に名誉ある賞に位置付けられています。菊池寛は「直木がそのことを知ったら受賞者に、おい、賞をやったんだから分け前を少しよこせ。なんて無茶を言いそうな気がする。」と言ったとか。直木がいかに愛された作家であったかが分かるエピソードです。
直木三十五は、そのまま「なおきさんじゅうご」と読みます。「直木」は本名「植村」の「植」の字を分解して作ったものです。「三十五」の方は直木が三十一歳になった時、「直木三十一」とし、自分の年齢に合わせ「三十ニ」「三十三」と変えていったようです。しかし「三十四」をとばして「三十五」で落ち着きます。(つまり三十三は二年間使用しました。) 本人の記す所によりますと、「三十三で留めておいたが、三三と重なるのは姓名判断上極悪であるという。なるほど余り貧乏が長過ぎる。素人考えから云っても「味噌蔵」だの「散々」だのと通じては縁起でもない。これを「みとみ」と読んで「粋な名だんな」という仲居があるに至っては到底女との苦労断てる暇はあるまいと思われる。一躍四を抜いて三十五になる所以である。」と言うことです。
直木が晩年に自分で設計した家が、現在も横浜の金沢区富岡に残っています。(現在は他人が住んでいます)直木の性格を表したようなこの家は一風変わっており、まず玄関がない、内壁は黒一色で統一され、トイレや浴室には黒いタイルが敷き詰められていたそうです。この記念館ではその家をモチーフとして黒い部屋としました。また臥て書く習性のあった直木に則して畳敷きとし、みなさまに直木の視点を感じ、そしてくつろいで頂ける記念館を目指しています。